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闘病映画から得られるヒント 映画『生きる』 ― 黒澤作品に闘病の在り方を探る ―

こんにちは、ジョニー・ジョニーです。今回は黒澤作品『生きる』を取り上げ、闘病のヒントを探ります。

 

この記事を読むと、主人公の行動を通して、重い病を背負った時の困難極まりない有り様が分かり、さらに、そこから闘病に生かせるヒントが得られます。

 

この映画の主人公・渡辺勘治は、市役所の市民課長。30年間まじめに働いてきました。しかし、体の不調から病院にかかったところ、胃がんだと。渡辺は強い衝撃を受けます。気を紛らわそうと、渡辺は夜の街へ繰り出すのですが…。

 

黒澤明の名作『生きる』に闘病のヒントを探ります

それでは。

 

  目次

 

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映画『生きる』から闘病のヒントを探る

主人公

渡辺勘治 某市役所の市民課長 (志村喬

 

主な登場人物

 

市役所関係

田切とよ 市民課職員 (小田切みき

木村 市民課職員 (日守新一

坂井 市民課職員 (田中春男

野口 市民課職員 (千秋実

小原 市民課職員 (左卜全

斉藤 市民課主任 (山田巳之助)

大野 市民課係長 (藤原釜足

市役所助役 (中村伸郎

 

渡辺の家族

渡辺光男 渡辺の長男 (金子信雄

渡辺一枝 長男の嫁 (関京子)

渡辺喜一 渡辺の父(小堀誠)

渡辺たつ 渡辺の母(浦辺粂子

 

他の関り

小説家 (伊藤雄之助

 

映画『生きる』 あらすじ

製作年1952年/143分/G/日本

配給:東宝

 

渡辺勘治は某市役所の市民課長。30年間まじめに働いてきました。毎日、書類にざっと目を通して判を押す、これを繰り返します。そこに意欲とか遣り甲斐といったものはなく、ただ時間を潰すための仕事でした。

 

ある日、渡辺は体調不良のため病院へ。医師からは、ただの胃潰瘍だと言われます。しかし、本人に告知しないのが当たり前の時代。渡辺は胃癌だと悟りました。

 

突然の病に居たたまらない渡辺は、夜の歓楽街をさまよい歩くことに…。飲み屋で知り合った小説家に案内され、パチンコ、ダンスホール、ストリップ劇場などを梯子します。ですが、気持ちは一向に晴れません。

 

翌日、渡辺が無断欠勤のまま街をぶらついていると、同じ課の事務員・小田切とよと出くわします。小田切は市役所を辞めるのだと。「あんな退屈なところでは死んでしまいそう」と言い、玩具会社の女工になるのだと。そんな彼女を渡辺は食事に誘いました。

 

渡辺は小田切と、カフェ・遊園地・映画館・牛鍋屋を梯子する内、あっけらかんとした彼女の振る舞いに、逞しく生きる力を感じます。自分が胃がんであることを伝えると、彼女は工場で作ったおもちゃを見せて「課長さんも何か作ってみたらいいのよ」と。その言葉に渡辺はハッと気づかされます。「あそこでもやればできる、やる気になれば」と。渡辺は翌日、市役所に復帰しました。

 

それから5か月後、渡辺はこの世を去りました。渡辺の通夜の席、弔問に訪れた市役所の同僚らは、渡辺が復帰した後の様子を語りだします。

縦割り行政を地で行く市役所の中で、渡辺は歯車として働くだけでした。住民の請願を受けても、右から左に受け流すだけ…。

 

しかし復帰後の渡辺は違いました。住民からの要望に目を付けると、各部署間を堂々と渡り歩き、腰の重い幹部らを粘り強く説得します。ヤクザの脅しにも屈しません。その結果渡辺は、住民の願いだっだ公園を、遂に完成させたのです。

 

雪の降る夜、公園の真新しいブランコに揺られながら、渡辺は息を引き取りました。

 

新公園に関わる住民らが焼香に訪れると、渡辺の遺影に涙し、感謝しました。渡辺の行いに異議を唱えた助役らは、そそくさと退席していきます。残った市民課職員らは、次第に渡辺の成し遂げた仕事を称え始めました。そして、役所仕事の腰の重さについて、互いに批判し合うのでした。

 

 

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映画『生きる』に闘病のヒントを探る

市役所の市民課長・渡辺勘治は、がんであることを悟り、自分をすっかり見失います。市役所は無断欠勤し、歓楽街を飲み歩きます。

 

翌日渡辺は、同僚の事務員・小田切とよと、街で偶然顔を合わせます。

渡辺は、彼女との出会いから大きな気づきをもらい、その勢いで市役所へ復帰。

 

渡辺は、型通りにこなすだけの仕事を改めます。市民の陳情を丁寧に扱い、身を粉にして働きます。市役所の各部署を説得して回る姿は、かつての渡辺ではありません。

 

どうして渡辺は仕事に奮闘し出したのでしょうか?

 

物語の流れからは、小田切の若いエネルギー、純粋さに突き動かされたのだと…。それはそうなのですが、渡辺に何が起こったのでしょう。

 

アドラー心理学者の岸見一郎さんが以下のように論じています。

 

患者(そして家族)は、「無時間の岸辺」に打ち上げられるということがあります。「無時間の岸辺」は、先に引いたヴァン・デン・ベルクの言葉です。

「あらゆることは時間とともに動いていくが、患者は無時間の岸辺に打ち上げられるのだ」

病気になると、仕事の約束をキャンセルせざるをえなくなることなどから、明日は、今日の延長ではなくなります。

当然くると思っていた未来がなくなってしまうのです。

実際には、病気になる前でも、未来がくることは自明ではなかったはずなのですが、健康な時は、そのことが見えていなかったのです。

 

「明日が必ずくるとは限らない」ということに思い当たることは、肯定的側面もあります。

病気になって、時間がなくなる経験をした人は、その後、時間についてそれまでとは違う見方をすることになります。

これこそが、病気になった時に学びうることです。

 

私も学びました。キツイ闘病経験をしたことで、後回しにしていた大切なこと、自分には無理だと思い込んでいたことを、実際に遂行することがいかに大事かと。

 

人間性心理学のロジャースがいうように「今、ここ(here and now)」に意識を集中する大切さを、明日が分からない闘病状況から、私は初めて気づくことができました。

 

映画の主人公・渡辺は、重い病気に追い込まれたことで、一時は自分を見失いました。

しかし、小田切の表裏のない純粋さに触れた渡辺は、そのことをきっかけに本来の自分を取り戻します。

そして、「今、ここ」に全身全霊を込めて行動を起こします。

もはや渡辺には、過去も未来もなく、ただ現在だけ、今だけが光輝いたのです。

 

岸見一郎さんは、以下のように解説します。

 

アリストテレスがキーネーシス(動)とエネルゲイア(現実活動態)について、次のように対比して論じています。

普通の運動(キーネーシス)には、始点と終点があります。

その運動は、効率的に速やかに達成されるのが望ましいので、快速や急行に乗れるのであればわざわざ各駅停車の普通電車に乗る必要はありません。

目的地に着くことが重要であり、目的地に至るまでの動きは、目的地に着くことが重要であり、目的地に至るまでの動きは、目的地に着いていないという意味で、未完成で不完全です。

他方、エネルゲイアは、今「なしつつある」ことが、そのまま「なしてしまった」ことであるような動きです。

どういうことかというと、この動きは、先の始点と終点がある動き(キーネーシス)とは違って、今、していることが、それがどこかに到達したかどうかに関係なく、すでに完成しています。

例えば、ダンスは、今踊ること自体に意味があるので、ダンスをしてどこかへ行こうとする人はないでしょう。

 

それでは、生きることは、どちらの動きでしょうか。人生が、始点(誕生)と終点(死)のある数直線のようにイメージされることがあります。

「あなたは今、人生のどのあたりにいますか」とたずねると、若い人は、真ん中よりも左のほうを、年配の人は右のほうを指します。しかし、折り返し点までは遠いとか、折り返し点を過ぎてすぐのあたりのところにいるというようなことは、これからも長く生きることを前提にしていっているわけで、本当のところは誰にも分からないはずなのです。

七十年、八十年生きられるのであれば、折り返し点を過ぎたといってもいいのでしょうが、人は誰もがすでに折り返し点を過ぎているのかも知れないのです。

病気になると、人生をこのように線分でとらえることができなくなってしまいます。

この先まだまだ続くと思っていた未来がないかもしれないという現実に直面するからです。

生きることは、始点と終点のある動きとしてではなく、ダンスを例にあげられるような、エネルゲイアとしての動き、つまり、どこかに到達することを待たなくても、刻々の「今」「生きてしまっている」というのが、生きることなのではないでしょうか。

 

岸見さんはこの後、四十九歳で亡くなったご自身の母親を例に出します。

子ども達が大きくなったら旅行したいと口癖のように言っていたと。しかし病に倒れ、子どもは大きくなり、いつでも旅行に出かけられたものの、先延ばししていたために、結局一度も旅行に出かけることはなかったと。

 

主人公の渡辺は、重い病を悟った直後、突然、未来を喪失しました。閉塞感に苛まれ、精神的に追い込まれます。

 

歓楽街を遊び歩いても、何ら気が晴れることなく、家に帰っても、息子と話しすらできません。そうした中、田切とよとの巡り合わせが、渡辺にとっての大きな転換点になりました。

 

自分の気持ちに正直で、明るい純粋さを持つ若い小田切との対話は、渡辺にとって、カウンセリングのように働きました

玩具工場でうさぎのおもちゃを作る小田切から「課長さんも、なんか作ってみたら」と問われた渡辺。

はじめは「もう遅い」と嘆きますが、やがて渡辺は目を見開いて「あそこでも、やればできる。やる気になれば」と大きな気づきを得ます。

渡辺は、それまでの閉塞感から解放され、「今、ここ」に意識を集中し、本来のやるべきことに取り掛かりました。

岸見さんのいう「エネルゲイアの動き」、つまり、どこかに到達することを待つのでなく、刻々の今を、しっかり生きてしまっている状態。それと同じように、渡辺は、生きることそのものを「今、ここ」において体現したのです。

 

心理学者アドラーの言葉を最後に添えます。

過去を悔やむのではなく、未来を不安視するのでもなく、今現在の『ここ』だけを見なさい

 

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まとめ

主人公・渡辺にとって、とよとの巡り合わせが全てでした。閉塞感に囚われてしまい、次の一手を見失っていた渡辺。

しかし、とよとたわいないことを話しながら、一緒の時間を過ごす内に、渡辺に笑みが浮かび、自分を顧みる余裕が生まれました。「君を見ていると温かくなる……何かしたい、でもわからない。どうしたら君のように」と。

渡辺はとよから、何か作ったらと勧められると、市民からの嘆願を思い出し、すぐさま市役所に復帰しました。そこは、渡辺の本領を最も発揮できる場です。

渡辺は「今、ここ」に気持ちを込め、大きな仕事を成し遂げました。

 

引用・参考文献

「岸見一郎 『アドラー心理学 実践入門』 KKベストセラーズ 2014年 165‐169頁」

「佐治守夫・飯長喜一郎編 『ロジャーズ クライエント中心療法』 有斐閣 2014年」