とうびょうライトハウス

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闘病時には来世を想う ― 今を大事に生きるために

完治する見込みのない病気を抱え込むと、生きる希望を持つことはなかなか厳しいです。

明日をイメージすることさえ心がしんどいです……では、どうしたら良いのか。

苦しい状態を抜け出そうと私が試みたこと。それは、希望が見えない状況を乗り越えるために来世の存在を想いました。

来世に生まれ変われることに光を見出そうと……。本当に来世があるかないかは、とりあえずどうでもよく……。

重い病にかかった時、生まれ変わる来世を想うなら、苦しい今、病気と共に生きていくためのお守りとして働きます。少なくとも、罹患したばかりの頃の私には良く効いてくれました。

 

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   もくじ

 

来世を想って楽になる

 記事タイトルに書いたように、来世を想うことは、絶望的な今を諦めてしまうことではありません。今を大事に生きるためです。現世が行き詰まっている中、死ねとゼロになることさえ息苦しくて、もうどうでもいいと考えてはいけません。死んだ後、新たに次の人生が幕を開けるからこそ、そこに繋げるために、大事な今の人生があるという考え方をするのです。

それって宗教じゃない?と突っ込まれるかもしれません。そうではないです。来世の存在は仮説です。今の科学で否定も肯定も、もちろん立証することもできません。仮説検証すらできませんが、そうした曖昧さを受け入れながら、生きるための手段として信じるのです。天動説が当たり前だった時代に、地動説を想った人がいたように……。

そうやって来世を信じるなら。現世での閉塞感が和らいでゆきます。魂の永続性を想えるなら、今の辛い闘病生活も、次の人生をより良く生きるための宿題のような気持ちになれないでしょうか。

 

そんな自分が必要としたモノ

 病気になりたての頃、食べてはいけないモノを食べてしまう、ということがありました。ひと月に一回、東京神田の古本屋街に出かけるのが恒例でした。神田の老舗のカレー屋さんでポークカレーを食べ、その後、古本散策に出かけるということをやっていました。主治医から食べるな!と言われていた刺激物に、カレーも含まれていましたが。その頃、少々投げやりだった私は、主治医の忠告を無視して食べていました。月に一度の無礼講でした。でも、それは闘病初期の数少ない楽しみのひとつでした。食べ終わって店を出ると、近くの大型書店のトイレに向かうのが、いつものルーティーンでした。

 

話を元に戻しましょう。来世を想って心を軽くするためには、手引き書のようなものといいますか、モデルといいますか、手掛かりがあると良いです。そのひとつに映画があります。おススメは、「What dreams may come(奇蹟の輝き)」。 現在、アマゾンのプライムなどで見ることができます。

 


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まとめ

自分の命が失われるかも知れない時、身近な家族・友人がサポート役となって、心身両面にわたって支えてもらえる方もおられるでしょう。でも、そうした方でさえ、自分の本音をそのまま家族や友人にぶつけることは難しいでしょうし、したくもないでしょう。そうした時に、来世への想いが、心にちょっとした余裕の空間を作ってくれます。