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闘病する人 良きモデル(その3) ― 三浦綾子さん 作家 ―

こんにちは、ジョニージョニーです。今回は、作家の三浦綾子さんに関する記事です。三浦さんは、小説『氷点』で世に知られるようになった作家です。若い頃、肺結核脊椎カリエスのために長い闘病生活を送ります。そして病床にありながらもキリスト教に出会い、洗礼を受けます。病に苦しみながらも、優れた小説やエッセイを数多く発表して活躍されました。今回の記事では、三浦さんのエッセイ『泉への招待』から、病に関するエッセイ文を引用させて頂きました。私が難病を罹患して間もない頃、三浦さんの存在を知り、このエッセイ集を手にして、最も心打たれたところを紹介します。今現在、病と向き合っている方へのエールとなる内容です。また、後半部には三浦さんのドキュメント動画も置いてありますので、ぜひご覧ください。

 

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   もくじ

 

良きモデル 三浦綾子さん紹介

1922年4月、北海道旭川市生まれ。高等女学校を卒業後、小学校の教員となります。しかし、戦時において軍国主義的教育に関わったことから、戦後、罪悪感に苛まされ、教職から退くことに。その後、肺結核脊椎カリエスを患い、13年間の療養生活を送ることになります。その闘病中、キリスト教に出会い、1952年には洗礼を受けます。1959年、三浦光世さんと結婚。1964年、朝日新聞の懸賞小説に『氷点』で入選し、以後作家活動に入ります。その後、『塩狩峠』など多数の小説・エッセイ等を世に送り出しました。1998年、旭川市三浦綾子記念文学館が開館します。そして1999年10月、永眠。

 

『泉への招待 ー真の慰めを求めてー』 苦難の意味するもの

エスが道をとおっておられるとき、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。イエスは答えられた。「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである」   (ヨハネによる福音書第9章ー1ー3節)

 

私は今年(1982年)の5月、直腸癌で手術を受けた。私は誕生の時、首にへその緒を巻いて、仮死状態で生まれた。その時に酸欠を起こしたのか、私は生来腺病質な弱い子供として育った。二十歳を過ぎて肺結核にかかり、途中カリエスを併発して、十三年間病床に臥した。その後結婚はしたが、心臓が弱く血小板減少症という病気もした。一昨年、重症の帯状疱疹にかかり、失明を危ぶまれたが、その時、体のどこかに癌がひそんでいるかも知れぬと医師に言われた。そしてその予言は当たり、今年の直腸手術となったわけである。

考えてみると、私の半生は病多い半生と言える。こうした私のまわりで、この弟子たちのイエスへの質問に似た、心ない言葉を発する人に幾度か会った。

「何かに祟られいるのではないか」

「信仰があるのに、なぜ病気をするのか」

「何も悪いことをしないのに、病気になるのであろうか」

等々。また、善意の人も、

「あなたは篤い信仰を持っているのに、神さまはなぜ、あなたを病気にするのでしょう。わたしは神が信じられません」

と言った。共に因果応報の思想に根ざしているのであろう。つまり、苦難がその人々にとっては罰なのである。罰だと思うからこそ、苦しみは二重の苦しみとなる。

こう思っている人々の中で、誰がイエス・キリストのような言葉を言えるであろうか。イエスは罰ではないと明確に答えられたのである。本人の罪の故でもなく両親の罪の故でもない。だから、罰ではない。ただ神の御業がその上に現れた苦しみなのだと、言われたのである。

私は最初この聖句を、十三年の療養の中で読んだ。そして、どれほど大きな慰めを得、力を与えられたか計り知れない。私と同様に慰められ、力づけられた人が、千何百年の間に、世界中にどれほどいることか。生まれつき目や耳や口や、手や足の不自由な人はむろんのこと、病気の人、人間関係に悩む人、経済問題で苦しむ人等々、さまざまな苦難に会っている人々にとって、このイエスの言葉は、どれほど多くの人々を立ち上がらせたことであろう。なぜならここには、苦難の意味を、

「神のみわざが、彼の上に現れるため」

と説かれているからである。これは単に、ここに登場している一人の盲人にのみ言われた言葉ではないと、私は思う。

この言葉のあとに、イエスはこの盲人の目をなおしていられる。なおしたことは、むろん神の栄光を現したことになるではあろうが、では、癒されなかった苦難はどうなのか、という疑問を持つ人がいるかも知れない。私は、癒されようと癒されまいと、解決が出来ようと出来まいと、苦難に喘ぐ者の傍らには、神が正しくそこに立っておられると思う。人間は今までに何千億生まれたかわからないが、どれほど信仰の篤い人でも、聖人と呼ばれる人でも、大科学者でも、偉大な医学者でも、みんな死んで行った。人間はみんな死んでいく。もし、病気がなおらなければ神の栄光を現すことが出来ないとすれば、この地上には、一人として神の栄光を現わし得る者はいないということになる。

私は癌になった時に

ティーリッヒの、

「神は癌をもつくられた」

という言葉を読んだ。その時、私は文字どおり天から一閃の光芒が放たれたのを感じた。神を信じる者にとっては、「神は愛」なのである。その愛なる神が癌をつくられたとしたら、その癌は人間にとって、必ずしも悪いものとは言えないのではないか。私たちは「苦難」を取りちがえて、受けとっているのではないかと、私はティーリッヒの言葉に思った。

(神のくださるものに、悪いものはない)

私はベッドの上で、幾度もそう呟いた。すると、この癌という神からの贈り物が、実に意味のある、すばらしいプレゼントに思われて来た。苦難だと思って受けとっていたその大きな重荷は、目を大きく開けて見ると、神からのすばらしい贈り物に変っていたのである。いつしか私は、妙な言い方だが、

(私が度々病気をするのは、もしかしたら、神に依怙贔屓(えこひいき)をされているのではないか)

と思うようになった。私は肺結核脊椎カリエス帯状疱疹、癌と、次々にたくさんのプレゼントを神からいただいて来た。そしてその度に、私は平安を与えられて来たのである。

 

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 ☆私の感想☆

 私は闘病生活に入って間もなく、上記の書を手にしました。引用したところだけでも、当時の私にとって大きな励みとなりました。入院当初、体重は激減し、気力も薄く、これからどうなっていくのか分からない毎日でした。そうした中、唯一の楽しみは、病院内の売店に買い物に行くことでした。ある時、売店に行く途中、通路で行き違った見知らぬ方から、「お若いのに、たいへんだねぇ…」などと言われた記憶があります。憐れんでくれるならまだいいのですが、蔑むような声色でしたので、その時の私には辛く響きました。そうしたこともあり、三浦さんのエッセイの言葉は、当時の私にとって良い励ましとなりました。

私は何か特定の宗教を信じている訳ではないのですが、神の存在、高次の存在については、強く信じています。その理由は、幼いころ通った幼稚園が、キリスト教会によるものだった影響があるように思います。イエス生誕の演劇をやったり、聖書に関する絵本の読み聞かせがあったりと、その頃の記憶は、今も私の深い所にあり続けているようです。幼かったせいか、イエスの物語を素直に受け入れていました。楽しみながらキリストの教えに親しむことができました。それでも、後に信仰の道に入ることはありませんでしたが、どこかで人知を超えた力、存在が、やはりあるのだろうと感じています。

病のことを(神からの)プレゼントと評するなど、三浦さんは信者だから、そう思えるのだ、というご意見もあるかも知れません。しかし、信者でなくても、闘病、生活苦など逆境にある方がこのエッセイ文を読むことで、ホッとするような安堵感を持たれる方も多いに違いありません。さすがに、癌が、神からのプレゼントというのには、ちょっと驚きもあります。ただ、三浦さんの思いを踏まえて考えてみます。平坦な人生を送り、人格を磨き上げる機会もないまま人生に幕を下ろす。それもいいかも知れません。ですが、神から送られたプレゼントである癌という病を受け取り、その苦難に満ちた日々から得られる収穫物には、とても大きな価値があるように思います。

『夜と霧』の著者として知られる、心理学者ビクトール・フランクルによると、「人間は人生から問いかけられている」と。下記にもう少し引用します。

人間が人生の意味は何かと問う前に、人生のほうが人間に問いを発してきている。だから人間は、ほんとうは、生きる意味を問い求める必要なんかないのである。

人間は、人生から問われている存在である。人間は、生きる意味を求めて問いを発するのではなく、人生からの問いに答えなくてはならない。そしてその答えは、人生からの具体的な問いかけに対する具体的な答えでなくてはならない。

ここで私がお話したいことは、三浦さんが言われた神からのプレゼントとしての癌というのは、フランクルのいう、人生から問われている課題であるのだろうと。 その課題がたまたま病であっただけなんだろうと。つまり、病をもつ者は、病とどう向き合っているのか。そこから何を感じ、思い、考えたのか。そして何を発見し、何を手にしたのか。さらには、その発見をどのように、その人生において活かしたのか。というように、三浦さんの思いをフランクルの考え方に結び付けられないでしょうか。

病は、人生、つまり神から与えられた問(とい)であり、私たち病と共にあるものは、その病を単なる苦難と思わずに、日々の生活から大切なものを見つけるための良い課題として受け取ることが大事なように思います。

 

 まとめ

今回は、作家の三浦綾子さんによるエッセイ集『泉への招待』から引用させて頂き、感想等を書かせていただきました。長い闘病生活、キリスト教への入信。ベストセラー小説『氷点』を始め、多数の小説、エッセイを生み出した三浦綾子さん。すでに天国に昇られた三浦さんは、今日も、残された作品を通して、私たちに生きる勇気を与えようと語りかけています。よろしければ、ぜひ、三浦さんの小説、エッセイを手にとってみて下さい。

最後までご覧くださり、ありがとうございました。

 

 [引用元:三浦綾子『泉への招待』光文社、1987、5-8項]

 [引用元:諸富祥彦『生きがい発見の心理学(下)』NHK出版、2002、80-81項]